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出雲王朝邇波荒田別(荒脛巾)-縣君塩古-角古-真咋-古足-川勝-石勝-牛麿-嶋麿。
徐福の後裔が代々君子国として東三河定住していたが、倭讃王君の討伐で国を奪われた。
其の後中臣氏の拠点に。
倭聖大王(聖徳)が、下宮家の烏桓系百済王族倭舒(舒明)と百済救援しない姿勢に抗議して
戦いになり毒殺され息子の建(後の建天皇。所謂天武天皇)は、邇波石勝共々三河に流され青年期を過ごした。
小治宜坂王(珍彦。倭宿禰。倭武に対して水軍40艘を率いて来て有罪。三王朝解体。領地九州移動。後裔宇佐氏で、桓武天皇母の新笠は宇佐豊嗣の娘。)とその子孫が搬送した新羅渡来系の上陸地で、其処で過ごした為に秦の名字を当てられた。
もとより徐福子孫は養蚕や農業や治水技術があり恩恵を与えていたが、邇波彌母里別(御諸別)が技術を取得しその子荒脛巾が、国内に広げた経緯があり秦始皇帝の元を脱走した徐福子孫はハタの名字を使用した事から関連した氏族の為付された。
(邇波記。完全使用厳禁)
御世話に成りました。
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