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スレッド一覧

  1. 古代史について語るスレッド(1)
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平成の常識

 投稿者:鳩摩羅童子  投稿日:2017年 3月 8日(水)08時42分5秒
返信・引用
  「東北弁、島根弁は、100% 古代インド弁です。」
これは、平成の常識として良いと思います。

cf. シュメール系メガネで日本語を見た。 痕跡例
(古代インド弁 とは = サンスクリット語 + タミル語。 約 2000 単語検証済。)

この常識を広めて下さい。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html#Izumo

 
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅)領域に於ける倭人の動向(3-9)

 投稿者:hn2602  投稿日:2016年10月23日(日)19時29分59秒
返信・引用 編集済
   2年ぶりの書き込みですが、前回に、東岳(吐含山)に「東岳神」として脱解が祀られた理由が不明だと書きましたが、或いはこの山名自体が、脱解と関連した物であった可能性が思い浮かびましたので、前回の追補として書き加えます。
 脱解が倭国(=邪馬台国?倭奴国?)の東北千里にあると言う「多婆那」国或いは「花厦」(【王完】夏)国の出自であり、またその名の語義が、日本語の「たか」(高、鷹)であると考えられる事は金官伽耶国の始祖王の首露王との呪術合戦で、「鷹」に変身した事からもわかります。又、東岳と称された東方(日本の方向)の山の神(岳神)として祭られたこと自体からも、その名が「高」や「岳(たけ)」と言った上代日本語の語彙と無縁のものではなさそうな事も判ります。
 さて、脱解の漢字表記に「吐解」というものもあった事は以前に述べましたが、この「吐解」は「たか」の別表記か、或いは半島南部と日本列島の倭人語(古代日本語)の方言差の可能性もあると書きました。それと東岳の現地語名称「吐含山」とを比較すると、「吐」が「脱」と同音価もしくは方言差で「た」を意味するとすれば、「含」は「がん」「ごん」いずれの漢字音で読むにしても、t/d系の語頭子音と言う事になります。上代日本語では、全ての語彙は開音節であり、「ん」は仏典の読みから日本語に唯一入った単独で語末に発音され得る「子音」ですが、当然上代日本語時代や、おそらく3世紀の倭人伝語の時期にも、あり得なかった音韻だと考えられます。即ち「含」は「か/が」「こ/ご」と言った音価であったでしょう。即ち「吐含」山と言う山名は「吐(=脱、た)」「か」山と言う事になります。何の事はない、「東岳」即ち「東の山岳」の辰韓・新羅領域の現地語での地名は、「たか」山という語彙そのものだったのです。
 新羅は、金氏により半島南部の韓族及び倭人地域の統合を果たしましたが、地名を漢風(中国風)に変えました。これは或いは、馬韓出自の金氏は、新羅が「倭人と関わりが強い」という歴史的事実の「消去」を願って、そのような地名改変を行ったのかもしれません。おそらく同一人であろう朴赫居世と倭人の重臣瓠公を分離したのも、その為でしょう。
 

無題

 投稿者:hn2602  投稿日:2016年 9月25日(日)18時16分12秒
返信・引用
   2年近く投稿が中断していますが、2014年12月母が92歳で死亡し、その一月前に叔父が、翌年には義理の叔父(いずれも母方)が死亡し、視力低下で手術をすすめられていたものの、母の入院などで延引していた白内障の手術を昨年5月に受け、その後の経過が思わしくなく、視力が落ちる一方で、yahoo!掲示板等への書き込みも、多くの掲示板から撤退する状況で、あと少しだったこの掲示板への書き込み(まとめ)もままならぬ状態でした。現在も視力低下が進行中ですが、今年9月17日に広島であった同窓会で、来年は姫路で行うと正式発表があり、体力が許せば私も出席する予定です。幹事は「播但線」繋がりとかいう訳の分からない理由で、赤穂と豊岡に勤務していた2人と地元姫路で開業しているO君の3人になりました。
 1年先の話ですが、同窓会の節は、貴店を訪問し、古代史仲間数人に、和菓子を送りたいと思っていますので、よろしくお願いします。

 時間と視力が許せば、最後の数回分をいずれこの掲示板に投稿したいと思っていますが、何時になるか見当が付きません。
 

テスト

 投稿者:テスト  投稿日:2016年 1月24日(日)18時06分48秒
返信・引用
  テスト  

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける倭人の動向(3-8)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年10月13日(月)18時16分31秒
返信・引用 編集済
   『三国史記』新羅本紀に戻り、脱解の事績について、述べます。
 第3代新羅君主儒理王が遺言し、後事を託します。その遺言とは、自分の死後は、子供と娘婿の区別なく年長で且つ賢者である者が、王位を継ぐように、と先王(第2代南解次次雄)が言われたので、私(儒理)が先に王位に就いたが、今度は脱解が王位に就くのが良い、と云うものであり、脱解が即位します。
 二年(AD58年)春正月、例の倭人の重臣で脱解がその屋敷を奪った瓠公を大輔に任じます。即位前の脱解と同じ執政の職に、倭人の瓠公を任命したことにより、脱解の治世は、倭人の王と倭人の執政と言うきわめて倭人色の濃い政権ということになります。実際には、初期朴氏も倭人だと考えられますが、倭人と明記されているのはやはり、異色であり、いかに初期新羅政権~王権が倭人勢力に依存していたかを、物語っています。
 同年二月王自ら、始祖(赫居世)廟を祭ります。
 三年(AD59年)春三月王が吐含山に登ります。黒雲が現れて屋根のように王の頭上に浮かび、やがて散ります。前回、『三国遺事』の脱解王記事でこの吐含山で、脱解が「東岳神」として祀られたと言う記載がありました。脱解と東岳~吐含山には、何か特別の因縁があるのでしょうが、『三国史記』では、その関係はまだ見えてはきません。
 同年夏五月倭国と国交を結び、互いに使者を交換します。
 六月ほうき星が天船(天の川)で光り輝きます。これは例によって『後漢書』明帝紀の天文記事の引用ですが、一年繰り上げられているとされます。
 五年(AD61年)秋八月、馬韓の将軍孟召が、覆厳城(場所不明)と共に、新羅に降ります
 七年(AD63年)百済王が領土を、娘子谷城(忠北清州市)にまで、拡張してきました。百済王は使者を派遣して、王(脱解)との会見を求めますが、脱解は拒否します。これは、百済王が、新羅に服属を求めてきた、と言う事だと考えられます。
 八年AD64年)秋八月百済が出兵して、蛙山城(忠北報恩郡)を責めます。
 同年冬十月、百済は、また、狗壌城(忠北沃川郡)を攻め、王は兵二千騎を派遣して、これを撃破し、逃走させます。このあたりの記事は、「百済本紀」多婁王の項に、同様の記事がみられます。当時の新羅が実際に、忠清北道方面居間で支配していたとは、勿論考えられませんが、しかし、新羅を構成した辰韓六部~新羅六村の人々は、馬韓方面から、慶州方面へ移動して来た移住民集団であれば、百済の前身である伯斉国なり、他の馬韓諸国なりと移住途中で、色々と紛争を生じ、干戈を交えた事もあったでしょう。又、先住の倭人の部族国家群も、隣接する馬韓諸国としばしば紛争を起こしたことでしょう。これらの記憶や伝承が、後代の百済や新羅の伝説時代へと時代を繰り上げられて、歴史として記載された可能性は、あると考えられます。
 同年十二月、地震があり、降雪がみられませんでした。
 九年(AD65年)春三月、脱解王は。夜王都金城の西方の始林の中で、鶏が鳴くのを聞き、夜明けに瓠公にそこを調べさせたところ、金色の小箱が木の枝にかかっていて、その下で、白鶏が鳴いていました。瓠公は城に戻って、脱解王に報告し、王は役人にその箱を取ってこさせ、箱を開かせます。箱の中には、小さな男の子が居り、その姿や容貌が優れて立派であり、王は大変喜んで、左右の臣に、これはきっと天が私に後継ぎとして下されたに違いない、と言い、この子を手元に置いて養育しました。この男の子は成長すると聡明で智慧もあり、機略にも富んでいました。名を閼智とつけ、姓は金の箱から出てきたので、「金」氏とされます。これが新羅三王姓の一つで、歴史時代の新羅王家金氏の始祖とされます。なお、「閼」は「卵」或いは「穀霊」を意味する語彙とされ、建国時の二聖(朴赫居世とその妃の閼英)の閼英の名にも表れます。「智」は尊称とされますが、上代日本語の「(神)霊」を意味する「チ」と同源の語彙だと思われます(雷イカツチ、木の神ククノチ、火の神カグツチ、ヲロチ、ミヅチなど)。金閼智については、別に『三国遺事』の記事と合わせ、項を改めて、紹介します。
 脱解は始林を改めて、鶏林と名付けますが、後に金氏が新羅王家になったことにより、新羅の国号が「鶏林」鞆呼称されることになります。
 十年(AD66年)百済は、蛙山城を攻め落として、二百名の守兵を置きますが、間もなく新羅はこれを回復します。
 十一年(AD67年)春正月朴氏が身分の高い外戚である事から、国内の州・郡を、朴氏と昔氏で分治する事とし、その名称を州主・郡主としました。
 同年二月順貞を伊伐サン(「シ食」と言う字)に任命し、国政を委任します。これは第三代儒理尼師今の時に定めた官位十七等の第一位の官職になりますが、この伊伐〈シ食〉に任命された具体的人名は、これが『三国史記』新羅本紀では初出です。官位十七等外の「大輔」の職にあった倭人瓠公の処遇については不明であり、解任されたのか、大輔なる職掌が消滅したのかなど、一切うかがい知る事は出来ません。この「大輔」は脱解と瓠公のみが、此処までの記述で任命されたポストであり、或いは倭人である事が任命の要件であったのかもしれません。
 十四年(AD70年)百済が侵入してきます。
 十七年(AD73年)倭人が、木山島(不詳、蔚山の近く?)に侵入し、王は角干(官位十七等にない)羽烏を派遣し守らせたが、勝てず、羽烏は戦死します。ここで、百済以外の敵として、倭人が登場しますが、百済の侵入記事については、同じ『三国史記』百済本紀の該当年代に、ほぼ同様の記事がみられますが、日本側の史書には、勿論それに対応する記事はありません。又、先に国交を結んだ「倭国」と「倭人」を、同じ集団なり、領域国家なり、部族国家なりと考えてもよいのか、「倭国」と「倭人」を区別して使用しているのではないか?等、検討すべき問題が残されています。更に「羽烏」と言う人名の末尾に現れる「烏」と言う文字が、或いは倭人を意味する文字であるのかもしれません。これは、後に「延烏郎と細烏女」の項で、再検討したいと思います。
 十八年(AD74年)秋八月百済が国境地帯に侵入した為、軍を派遣して、これを駆逐します。
 十九年(AD75年)王都はひどい旱魃で、民が飢えたため、穀倉を開いて、穀物を与えます。
 同年冬十月百済が西隅の蛙山城を攻め、奪取します。

 二十年(AD76年)秋九月出兵して、百済を打ち、再度蛙山城を回復します。この城の守兵の百済人二百余名を全員殺します。
 二十一年(AD77年)秋八月阿〈シ食〉(官位十七等の第6位)吉門は加耶の軍と黄山津の川岸で戦い、敵の首級を一千余級も獲ります。吉門はその功により、第五等の大阿〈シ食〉を超えて、第四等の波珍〈シ食〉に昇級します
 二十三年(AD79年)春二月ほうき星が東方や北方に現れ、20日後にようやく、消滅します。
 二十四年(AD80年)夏四月王都金城で大風が吹き、金城の東門が倒壊します。
 同年秋九月、王が薨去し、金城の北壌井丘(場所不明)に葬られます。二十三年と二十四年の天文気象記事は、或いは脱解の死の前兆を意味したものかもしれません。
 以上で、『三国史記」新羅本紀の第四代脱解尼師今の項の記事は終わりますが、倭人出自と明記されている脱解が、後に「東岳神」として、祭祀された事は、以前述べた通りであり、彼が、本来吐含山=東岳の地神~山神であったのか、或いは後にそのような神格とされたのか?いずれの場合でも、何故、脱解が倭人~日本列島出自とされたのかは、新羅と言う国がどのような国であったのかを、推測させる重要な手がかりを与えてくれます。
 

古代史の探求は、独自の調査とインスピレーション

 投稿者:shig/谷田茂  投稿日:2014年10月 9日(木)13時43分47秒
返信・引用
  2,009年1月からスタートした、

「古代出雲王国ースサノオの光と影」シリーズは、
60章で終え、

「スサノオ超考古学」にて再スタートした

にほんブログ村の考古学・原始・古墳ランキングにおいても、
毎日更新していたころは、2週間トップをキープしていた

体調を崩して、長い間更新していなかったのだが、
それでも、ベストテンから落ちたことはない
今も管理ページを覗くと、毎日100アクセスは下らない
初めて訪問する方も、40回目の訪問のかたもある

「古代出雲王国」で検索されればわかる

たとえば、銅鐸と銅矛がどのように使われたか、(画像あり)

神楽のルーツはハワイの古典フラ・カヒコにあり(動画あり)

四隅突出型墳丘墓の起源は、宇龍港や隠岐の島にて今も行われる、だんじりにあり(動画あり)さらには・・もっと驚く・・いや、驚愕の事実が・・

など

頭の固い、歴史学者、考古学者の書物を読んでも、真実には到達しない

もちろん、私の説がすべて正しいとはいわない

古代史は、それを探求する人の数だけあるのだから

http://blog.livedoor.jp/shig1

 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)における倭人の動向(3-7)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年10月 3日(金)22時02分19秒
返信・引用 編集済
   『三国史記』新羅本紀巻一第四代脱解尼師今の項の記述によると、脱解はある時、楊山(慶州市の南山)の麓にある倭人の重臣瓠公の宅を望見し、吉兆の地と考え、騙してそれを奪い、そこに住むこととなります(その地が後に月城となったと記されています)。南解王五年(AD8年)に王が脱解が賢明である事を聞き、王女を与えます。南解王の七年に、登用されて、大輔の官職に就き、政治を一任されます。将にとんとん拍子の出世ですが、『三国史記』ではどのように脱解が瓠公をだまして、その土地を奪ったのかについては、一切記載がありません。その点については、『三国遺事』巻一紀異一第四脱解王の項に、伝承が記載されています。その記事を紹介します。
 『三国遺事』の脱解王の項では、駕洛国の海岸に漂着して、首露王らが迎えたましたが、脱解の乗る船はそれを避けて、新羅の阿珍浦に漂着して、阿珍義先と言う名の老婆に拾われます(同じ『三国遺事』巻二紀異二収載の「駕洛国記」では金官伽耶国の王位を求めて上陸し、首露王と呪術を競い、敗れて辰韓に逃れたとされています)。この老婆は、赫居世王の為に魚を取る仕事をしていました。この時鵲が船の上に集まっていたことから、老婆は脱解の入った船とその中の箱を拾い、開けたわけですが、脱解は老婆に自分の素性(龍城国の龍王の子)を述べ、話し終えると、二人の召使いを連れて、吐含山(村の前の山と言う意味)に昇り、石の塚を作ってその中に七日間籠って城=新羅の首都の王城である金城=の中で住むにふさわしいところが無いか、眺めてある峰・岡が三日月形をしており、永住するにふさわしいと判断します。そこがまさに瓠公の家だったのです。すなわち『三国遺事』では、『三国史記』とは異なり、脱解が最初から召使を連れていますし、漁撈に従事して養母を養う、と言った儒教風の美徳「孝」の徳目を示している様子もありません。儒家を正当とする史観に基づき編纂されている『三国史記』よりは、仏教臭が強いとはいえ、おおらかに呪術や詐術を肯定的にとらえる『三国遺事』の伝承の方が、本来の脱解の面影や、支配層でない一般の新羅人の心や文化を伝えるものと評価すべきでしょう。
 さて脱解は、瓠公の家の傍に密かに礪炭(礪は砥石で,礪炭は鍛冶場の痕を示す砥石と炭を意味する)を埋め、y翌日早朝に瓠公の屋敷の門前に行き、ここは自分の祖先の家だと主張します。瓠公は当然否定し、争いは役人の裁くところとなります(瓠公は新羅の初代王以来の重臣ですが、説話ではそれは影響していないようです)。役人が脱解に証拠の提示を求めたところ、脱解は「私どもは元鍛冶屋であり、ここで仕事をしていたが、暫らく隣村に行っている間に他人がこの土地を奪ったので、掘ってみればそれが判る筈です」と言い、役人が掘ったところ、果たして鍛冶場の跡が発掘されたので、脱解の主張が認められて、その所有が確定しました。これはいわゆる「鍛冶王」伝承・説話の要素を持っています。
 奈解王(新羅第三代南解次次雄)は脱解が智略に富むことを知って、長女の阿尼夫人を脱解の妻とします。『三国史記』では「阿孝」夫人でとなっており、同じ『三国遺事』収載の「王暦第一」の「第四脱解、一云吐解」の項では、「妃南解王之女阿老夫人」となっています。すなわち、脱解の后の名については、南解次次雄の娘(長女)である事は一致していますが、その名前については、正史の「阿孝」と『三国遺事』の「阿尼」「阿老」と皆異なっています。「阿」は名前の前に付ける呼びかけの語ですから、それを除いた「孝」「尼」「老」から本来の后の名を探ることは不可能でしょう。
『三国遺事』では、この後脱解の神秘的能力の逸話が記されています。それは、「白衣」と云う者に、水を汲ませに行かせたところ、白衣が脱解に水を入れた容器を差し出す前に、自分が水を飲もうとしたところ、口が容器にくっついて、取れなくなり、脱解に今後はそのようなことをしないと誓って、漸く容器(角製)が口から離れた、という話です。『三国遺事』では、正史『三国史記』と異なり、脱解の時代の政治的事件については、ほとんど触れていません(儒理尼師今との王位互譲の話は記載されています)が、死後の怪異については、記載がありますので、それをここで述べておきます。
 在位二十三年(後漢の建初四年、AD79年*『三国史記』では一年後の建初五年)に死亡したので、□(足ヘンに「毓」の旁の部分)川丘の中に葬られますが、その後神のお告げがあり、「私の骨を慎んで埋めよ」とあり、骨を集めると、その頭骨は周囲3尺2寸、身骨は長さが9尺7寸、歯は凝って一塊のようであり、骨の節も皆連なっていて、「所謂天下無敵力士之骨」であった、と記されています。この集めた骨を砕いて塑像を作り、宮中で祭ったところ、また神のお告げがあり、「我が骨を東岳に置く様に」との事で、東岳に奉安した、と記載されています。一説にには、脱解死後、二十七代の文武王(文虎王)の時代の調露二年(680年、唐の高僧の年号)に太宗(文武王の誤記)の夢に厳めしい老人が現れて、「私は脱解である。私の骨を□川丘から掘り出して、塑像を作り土含山に奉安せよ」と言ったので、王はその言に従った。その後今に至るも祭祀が絶えない。これが即ち東岳神である、とされています。
 いずれにしろ、高麗時代にも、「東岳神」と言う山神として、脱解の祭祀が行われていた、と言う事実が存在したことになります。これら新羅王家金氏に先行する王とされ、倭人でもあった脱解が、地神・山神としてまつられている事こそ、実は、倭人がこの地の先住者であった事を如実に示すものであり、韓族化したとはいえ、本来は朴氏・昔氏の民であった旧倭人系の新羅人庶民が、自分たちの同族の王を、追慕し、祭祀を絶やさなかったことが見て取れます。

 余談ですが、韓国の日本に対する恨み、俗に「千年恨」と言うのは、実は自分たちを半島に残して、日本列島に去っていった王族や移住達に対する複雑な思いが、底流にあったのではないか?と、考えさせられます。
 

講演会「行田の古代史を探る」開催

 投稿者:gyodatabi  投稿日:2014年 9月18日(木)23時05分28秒
返信・引用
  こんにちは、

告知失礼いたします。

10月4日午後1時から埼玉県行田市佐間の
行田市教育文化センター「みらい」で、
埼玉古墳群を始めとする行田の古代史を探る
講演会「行田の古代史を探る」が開催されます。

講師は、「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイン・作画監督として知られ、
「ヤマトタケル」など神話や古代史をテーマとした作品を描かれている
漫画家”安彦良和”先生 など下記の3名の先生方です!!

第1部
「古代に想いを馳せる~ワカタケル大王とオワケの臣~」
講師:漫画家 安彦良和 先生

第2部
「埼玉古墳群 七つの謎を解く」
 講師:埼玉考古学会会長 高橋一夫 先生
「さきたま地域の埴輪」
講師:大正大学教授 塚田良道 先生

入場料は無料です!

来場者の中から抽選で15名に安彦良和先生のサイン入りポスターをプレゼント!!

また、会場内で古代グッズ(埴輪、土偶のレプリカ等)を販売します。

申し込みは、氏名、住所、電話番号、メールアドレス、
申し込み人数(3名まで)を記入して
bunka@city.gyoda.lg.jp までメールしてください。入場整理券をお送りいたします。
(先着順、定員になり次第締め切ります。)

ぜひ、お申込み、ご来場ください!!

http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/kodaisiwosagurukouenkai.html

 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)における倭人の動向(3-6)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 9月16日(火)21時56分28秒
返信・引用 編集済
   正史『三国史記』によれば、脱解と宝物の入った箱が、新羅の東海岸阿珍浦に漂着したのは、新羅の始祖王朴赫居世の在位三十九年(BC19年)だとされます。新羅三王姓の最初の朴氏を除く二姓の始祖は、それぞれ、前王家の始祖王の在位中に出現する形を示しています。すなわち、金氏(慶州金氏)の始祖閼智は、脱解の在位中に、出現しますが、これについては、その時点で触れます。
 さて、海辺に住んでいた老婆が、綱で箱を引き寄せ 箱を開けると、中に少年がいました。『三国史記』では、脱解の母が、卵を絹で包み、宝物と共に箱に入れたと記載されているのですが、この時点では、絹の布や宝物については、触れられてはいません。この老婆が、この少年を引き取って、育てると、成長するに従い、身長が九尺にもなり、その風格は、神のように秀で、明朗で、知識も人に抜きんでていました。
 ある人が、この子の姓氏は不明だ。最初に、箱が来た時に、一羽のカササギ(鵲)が飛んできて、鳴きながらこの箱に従っていた。そこで、「鵲」の字を略して、「昔」の字を以って、姓氏とするがよかろう、また彼の入っていた箱を開けてその子を出したのだから、名は「脱解」としたらよいだろう、と言い、此処に「昔・脱解」の名が、決まります。
 この「ある人」が誰なのかは、不明ですが、その姓、諱ともに、漢字で説明されています。「鵲」に因んで、「昔」姓、「箱から脱出した」(解き放たれた)から、名前は「脱解」と名付けられた、と言う説明です。この説明は、脱解のもう一つの漢字表記「吐解」を、ではどう説明するのか?と言う事を考えると、漢字表記が定まってから生じた後付けの説話である、ということが、一目瞭然です。「吐解」を「箱が吐き出した子供だから」と言うこじつけも可能でしょうが、実際には、「t*ka(i)」と言う名前が伝承されており、それを音写した漢字から、このような説話が生じた、と考えるべきです。脱解は、明らかに倭人ですから、彼の本来の名は、倭人の言語で命名されている筈です。朴・赫居世と昔・脱解の「中継ぎ」の王と考えられる「南解次次雄」が、「なか」(次次雄の部分は、次次=すず、さざ、すなわちミソサザイのさざ、雀のすず、と同源の語彙であると考えるべきでしょう)であるならば、「脱解」が「たか」(鳥類の鷹と、高祖・高宗の高の語義も無視できませんが、「鷹」と九尺と言う高身長の特徴を、意味していると考えるべきでしょう)と言う上代日本語と同源の、半島東南部倭人世界の倭人語の名前で解釈されるべきでしょう。「昔」氏については、同じ卵生の朴氏と同姓だった、と考えるべきでしょう。

一方、『三国遺事』巻一紀異第一の「第四脱解王」の項では、脱解の姓名について、『三国史記』と同じ伝承をも記載していますが、「伝聞」としての記載であり、断言はしていません。特に、その姓「昔」氏については、、脱解が正史では後述される倭人の重臣瓠公の家を、「昔」策略を用いて奪ったからだ、とする説を、「鵲」由来説よりも先に載せています。初めに、朴氏の始祖とされる赫居世とその重臣の瓠公が、本来同一人であり、辰韓六部或いは新羅六村の人々は、先住の倭人の中から、王を推戴することによって、倭人と同盟し、馬韓王=辰王からの自立を果たした、と解釈しました。結局のところ、倭人の重臣瓠公、その主人とされる新羅の始祖王朴赫居世、それに、昔氏の祖昔脱解は、本来同一人であり、倭人の出自であった、と解釈するのが、最も整合性があると思われます。

 さて、正史『三国史記』では、脱解が入っていた箱の中の宝物がいったいどうなったのか?については、一切触れられていません。脱解を引き取って育てていた老婆=養母を脱解は魚釣りをして、養いますが、怠る事もありませんでした。そこで、母親が脱解に、その骨相など情人ではないから、学問をして、功名を立てるように勧め、脱解は学問に専念し、地理にも精通します。
 ここで、脱解がこの老婆の養母になったのであれば、脱解の姓は、養母の姓であるのが一般的だと思われますが、或いは、当時は支配層の有姓者と被支配層の無姓者に分かれていたのか、中国系や遊牧系の夫余などのような有姓の民族出自と、倭人などのように無姓と言った、属する種族によって相違があったのかもしれません。なお、此処での「姓」は「かばね」ではなく、中国風の「姓」「氏」と同様なものを指します。又、脱解が、最初漁労を仕事にしていた、という記述も、辰韓地域における倭人の生業として漁労の重要性を示唆しているものとも考えられます。
 次回、『三国史記』では、脱解が、倭人の重臣瓠公の住居を奪う話になります。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)における倭人の動向(3-5)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 8月28日(木)20時07分50秒
返信・引用 編集済
   脱解の父母の国の名前について、正史『三国史紀』と、民間の仏教臭の強い『三国遺事』に於ける地名の音写の違いがあり、正史では「多婆那国」(丹波、但馬?いずれも一音節では「タハ/タバ」と考えられる)、野史では「カカ/カガ」と異なった国名(しかし、日本の山陰や北陸の地名に類似)を示していました。脱解の辰韓・新羅方面への漂着記事に触れる前に、先回りして『三国遺事』からの脱解の辰韓東海岸漂着後の記事を引用しましたので、時間を戻して、脱解が、箱の中に宝物などと共に詰め込まれて、海に流される時点に戻って、その「昔」姓の由来などについて、『三国史記』に従って、漂着の状況を追います。適宜『三国遺事』も引用します。
 さて『三国史記』によれば、箱に詰められて海に流された脱解は、最初に金官国(金官伽耶国)の海岸に漂着します。金官国は釜山近くの金海とされ、『魏志』韓伝の弁辰12か国の一つの「狗邪韓国」であり、六伽耶の金官伽耶国です。ここで、「六」やその倍数の「十二」が現れています。辰韓「十二」ヶ国と合わせ、辰韓や弁辰の諸国が、いかに「人為的」に編成された集団であったか?がよく窺えます。ここでも、中国史書や、或いは半島の史書が伝えるように、少なくとも辰韓・弁辰を構成する部族国家群が、あるいはその少なくとも支配者層が、馬韓の北方から馬韓の協力によって、半島南部から東南部に侵入した新来の移住者であったことが、わかります。すなわち、辰韓の有力国家である新羅の支配階級も、基本的には、半島東南部の先住民ではなく、移住・侵入してきた新来者であったことが確認できます。この点については、弁辰12か国、あるいは六伽耶中の有力国家である金官伽耶国も同じであり、更に六伽耶の初代国王が、みな天から降ってきたとしたり、あるいは兄弟であったとする伝承を持つことも、重要です。すなわち、辰韓や弁辰の支配層は、同一の氏族ないしは新来民族の出自である、という伝承です。これは馬韓諸国についても同様だとする『後漢書』の記載も参考になるでしょう。これらの記載を疑う人もありますが、私は、中朝双方の史書や伝承の一致から考えて、史実であろうと考えています。

 金官国の海岸に漂着した脱解と宝物の詰まった箱ですが、金官国の人々はこれを怪しんで、拾い上げようとせず、箱はまた海に浮かんで漂流し、辰韓の海岸に漂着した、とするのが、正史『三国史記』の記述ですが、一方、『三国遺事』では、駕洛国沖合に舟が現れ、駕洛国王の首路王が、臣民たちとともに、太鼓を打ち鳴らしつつ、船を迎えて留めようとしましたが、船は急に逃げて、新羅の東海岸にある阿珍浦に漂着した、と記述されています。要するに、『三国史記』では、脱解は金官国人に歓迎されず、再度海に流されて、新羅に漂着し、他方『三国遺事』では金官国人に歓迎されたが、自ら新羅に漂着した、という書き方の相違があります。「駕落国」とは、もちろん「から」の音写であり、「加羅」「伽羅」とも書き、「伽耶」とも通じます。上代日本語では、「から」と認識されており、「伽耶」つまり「かや」という音価では伝わってはいませんが、「ウガヤフキアエズノミコト」といった神名の「かや」の部分を、伽耶と解する説は昔からありますが、まあ、牽強付会でしょう。この「駕洛国」が、金官伽耶国であることは、首露王の名からも、判明します。
 なお、余談ですが、「首露」という王名も、実はこれまでにあらわれた「儒理」「儒禮」「孺留」あるいは「類利」「瑠璃」といった名前との類似が、窺えるようにも思われます。

 さて、『三国遺事』の巻二紀異第二の末尾に「駕洛国記」の項が立てられています。正史『三国史記』には載せられなかった伽耶諸国中の有力国家金官伽耶国の歴史ということになりますが、建国神話とでもいうべき神話・伝承が記載されています。首露王の時代に、「〈王完〉夏」国の含達王(含達婆王とは書かれていない。婆の脱落か?異伝か?)の夫人がにわかに妊娠し、月満ちて、卵を産み、卵が化して人になったが名を脱解と言い、海から駕洛国にやってきたときには、背丈が三尺ほど、頭の回りが一尺ほどになっていたとされます。脱解は、宮殿に乗り込み、王位を奪いに来たと言い、天命により即位したという首露王と、対決します。脱解がまず「鷹」に化けると、首露王は鷲に化け、次いで脱解が雀に化けると、首露王はハヤブサに化けます。やがて本身に戻った脱解は、負けを認めて去ります。脱解が中国船の通う水路に向かって去ったのを見て、首露王は脱解が留まって乱を起こすのではないかと恐れ、急ぎ舟師(水軍)600隻を出して彼を追わせると、脱解は鶏林(新羅)の国境地帯へ向かったので、舟師は撤収します。
、 同じ『三国遺事』でも、巻第一「紀異第一」の「新羅第四 脱解王」の項の記事と、巻第二「紀異第二」の「駕洛国記」の項では、脱解の扱いや印象が相当異なります。金官国の王家だった金氏(新羅王家の金氏と区別して、金海金氏と言い、新羅王家は慶州金氏と言う)は、勿論首露王の子孫と称しており、新羅に降伏した後も新羅王家金氏と婚姻関係を結び、その有力な外戚となりました。新羅三王姓の最後に登場する、且つまた末期の後期朴氏(新羅王位の簒奪者)とは異なって、中国史書で唯一確認できる新羅の実在の王家だった慶州金氏は、前にも述べましたが、実際には「慕(募)氏」(馬韓=慕韓の「慕」)であった可能性が高く、その金氏への改姓は、金官国併合後であり、金海金氏の姓を借りたとでもいうべきであろうと思われます。いずれにしろ、金海金氏には、慶州金氏以前の倭人系の王家昔氏に対する優越感のようなものが、存在したのかもしれません。
 更にもう一点注目すべき「駕洛国記」の記事は、脱解が呪術合戦で最初に変身したのが「鷹」である事です。上代日本語で「鷹」は「たか」と発音します。私が「脱解」は、上代日本語「たか」(高、鷹)の「音写」だと考えた理由の一つはもちろん倭人である以上、彼の名を倭人の言語、すなわち時代の近い上代日本語かその極めて近い方言なり、先行言語であると考えるべきだからですが、この呪術合戦で、まず「鷹」に変身したからでもあります。天空を飛翔し、卵生である、と言う特徴を持つ動物と言えば、鳥類であり、卵の形状をとって天から降臨する王者が、本来鳥類と見なされていたらしいことも推察できます。鷹や鷲、或いはハヤブサ(『三国遺事』の該当箇所では「隼」シュンではなく、「鸇」センと言う漢字を使用しています)と言ったいわば狩りをする猛禽類のみならず、「雀」が脱解の第二の変身として現れるのは、少し意外の感もありますが、此処で、日本の仁徳天皇の諱「オホササキ」(みそさざいの類)が「大雀」と漢字表記されている事、また第2代新羅君主「南解(これを上代日本語の「なか」=中の音写と解釈しました)次々雄(あるいは慈充)」の「次々雄」がこの「さざき」と同源で、呪力のある人、すなわち「巫覡」の意味だとする説がある事を紹介した事を、想起してください。呪術の技を競った脱解と首露王は、将に鬼神に仕える巫者だったのです。上代日本語で、ミソサザイの類に霊力が認められて、それに「雀」の漢字が宛てられていると考えれば、将に半島南部の駕洛国地域も含めて、倭人世界での伝承と考えられます。であれば、この説話の「雀」も実は、「ミソサザイ」の類だったかもしれません。
 この『三国遺事』に引用されている「駕洛国記」の記載内容を見て、金官伽耶国が独自に史書を編纂していた可能性を想定する向きもありますが、実際には新羅に併呑され、その姻戚ともなった金海金氏一族の伝承が、新羅の国史編纂過程でまとめられた、いわば、金海金氏の家伝のようなものだった、と考えたほうがよいのではないか・と私は考えています。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける和人の動向(3-4)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 8月24日(日)17時36分31秒
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   脱解の出自についての記載を引き続き紹介します。
 まず『三国史記』では、(多婆那)国王が、「女国」の王女を娶り、妊娠して七年後に彼女は「大卵」を生み、王は人の身でありながら卵を生むとは不祥なので、その卵を捨てるように言います。王妃は捨てるのに忍びず、絹の布で卵を包み、宝物とともに海に流し、その行方を波に任せます。
 さて、この正史の記事でまず気になるのは、多婆那国王が迎えた王妃の母国です。「女国」とは、中国正史に現れる卑弥呼の「女王国」の「王」の脱落か?とも考えたくなります。ここで、正史である『三国史記』の遺漏を補い、また異伝を記す『三国遺事』紀異第一と比較しましょう。前回の国名四つの「異伝」を記した記事の続きに当たります。脱解の言として「私は龍城国の者で、その国には二十八の龍王が居り、みな人の胎内から生まれ、五・六歳頃に王位を継ぎ、万民を教い、性命を正しくします。八品の姓骨がありますが、例外なくみな大位に上ります。ときに父王の含達婆(ガンダルバ)が積女国の王女を妃に迎えましたが、永く子ができなかったため、子を授かるよう祈願したところ、7年後に卵を一個産み落としました。そこで大王が群臣を集め、『人が卵を産むということは古今に例がない。不吉の兆しである』として、箱を作り、その卵を入れ、七宝と奴婢を箱の中にいっぱいに入れて船に積んで、『勝手に因縁のある地に行って、国を立て家を興すように』と言って、祈りました。するとにわかに赤龍が現れ、船を護衛して、この地(新羅の東海岸に流れ着きました。」と彼を拾った女性に告げています。この漂着については後でまた論じますが、とりあえずは「女国」が「積女国」となっていることが問題です。
 すなわち、『魏志倭人伝』などに言う「女王国」ではなく「『積』女国」という国名なり、地名?なりが現れます。
 さて、「積」は脱解の姓とされる「昔」や、あるいは彼を護衛して、新羅に導いた「赤」い竜の「赤」とも、音が近いことが注目すべき点です。これらから考えると、脱解の姓である「昔」氏は、実は「積女国」(「積」氏の女国?)に由来したと考えられ、当初からの脱解の姓であったと考えられます。 同時に「赤い竜」の「赤」も音が近いことにも、意味があるかもしれません。最初に赫居世について、「赫」は上代日本語「かぐ」(輝く)の語義で上代日本語の音写であろうと述べました。一方で「赫」の訓(語義)は、「かがやく、赤い」であるとされています。さて、卵生の赫居世は、その卵の形状が「瓢箪」に似ているから、として、辰韓語かあるいは先住民語かは不明ですが、「瓢箪」を意味する「朴」pak?と言う「姓」になった、という建国伝説がありました。以前に論じたように、赫居世も脱解もともに「卵生」であるならば、その瓢箪状の形状にちなんで、ともに同じ「朴」姓であるべきだと論じました。ここで、「昔」が仮に「赤」に音が近いことから、使用されたとすれば、実は朴氏の始祖とされる「赫居世」こそは、まさに「赤く輝く」存在です(「居世」は語義が負傷ですが、「社、杜」の漢字の語義からは、土地神、地主神とも解されることは前述したところです)。すなわち赫居世は、実は「赤」氏(あるいは「赫」氏?)であり、どの程度、「昔」「積」と音が近いのかはわかりませんが、やはり脱解と赫居世は、同じ倭人系の出自で、同姓あった、と解釈できるでしょう。

 余談になりますが、この脱解の言葉に現れる「姓骨」の説明ですが、八品、すなわち八つの等級に分かれており、出生による身分・階級(と言うよりも階層、或いは氏族の家格とでもいうべきもので、就ける最上位の地位・官職が定められている)を意味しています。脱解の母国では、皆大位即ちこの場合は龍王の地位に昇りますが、同一国に複数の龍王(それも28人!)が存在する、と言うのは、仏説の影響かもしれませんが、倭人の国家では、上下差がある複数の王が存在し得るという事情を述べていた可能性もあります。「姓骨」は新羅の骨品制を反映した言葉ですが、上代日本語の「かばね(姓)」は、将に語義は「しかばね(死骸、屍)」であり、おそらくは、家系の始祖が、しかばね(死骸)から骨のみになった状態が、原義だったのでしょう。その始祖の子孫の就き得る地位・官職こそが「かばね(姓)」であり、新羅では最上位の聖骨と真骨のみに王位に就く資格があるとされていました。日本では、大王家には、氏族名もかばね(姓)もないとされていますが、実はその「かばね」は「おほきみ(大君)」であったと考えられます。すなわち、氏族の全員が、その「かばね」を称し得るのが、上代日本に於ける「かばね」制度の根幹ですから、王族が男女老幼を問わず、みな「おほきみ」(大君)と呼称されたのも、当然でしょう。それを王位に就く資格を「聖骨」「真骨」に限定したものの、「尼師今」など早くから王号を区別した新羅から見ると、脱解のような倭人国家の「皆大位に昇る」古い複数王制の面影を残している日本列島の倭人国家の状況は、特異に写ったのかもしれません。
 とはいっても、新羅にも、その複数王制の名残とも言えそうな「葛文王」と言う名称が、しばしば現れますが。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける和人の動向(3-3)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 8月23日(土)22時20分30秒
返信・引用 編集済
   『三国史記』新羅本紀巻一第4代脱解尼師今の記載を続けます。
 脱解の姓と王妃の名を記載した後は、、その出生と新羅の君主になるまでの記事、いわば「即位前紀」に相当する記事が続きます。この部分が、脱解の素性など、倭人としての脱解についての記事であり、しかも『三国遺事』との異同もあり、興味の惹かれる部分です。
 まず、脱解は昔「多婆那」国で生まれたが、その多婆那国は、「倭国の東北一千里」のところにある、と記載されています。この「倭国」は、日本列島全体というよりは、「倭王」の国を意味しており、したがって、脱解の時代(在位AD57~80とされています)で言えば、「倭奴国」や「倭国王帥升等」の時代ですが、もちろん新羅の古年代も日本の史書同様、古く記載されていますから、この倭国は、中国史書の「邪馬台国」や「倭の五王」の時代の「倭国」の中心部分を指すと考えられます。
「多婆那」国の「那」は、満州・ツングース語などの「na.naa」で土地を意味する語彙ですが、上代日本語でも「地震(なゐ)」の「な(地)」であり上代日本語「の(野)」はその母音交代形だと考えられていますから「多婆那」は「たば(多婆)国」を意味する語彙です。邪馬台国九州説に立って、この倭国を北部九州とすれば、その東北一千里は、山陰地方、出雲から音が類似する「但馬」「丹波」方面になります。邪馬台国畿内説で、倭国を大和とすれば、北陸の越前・加賀・能登・越中方面になるでしょう。「多婆那」を「玉名」市に比定する説もありますが、その場合「倭国」を北九州ではなく、南九州あたりにするか、「東北」の方角を誤記とせざるを得ませんから、無理だと思われます。
 一方、著しく仏教の影響の強い『三国遺事』では、、「多婆那」国の代わりに、「龍城国」「正明国」「(王完)夏国」(「王完」で一字)「花厦国」の4つの国名が伝えられています。このうち、最初の「龍城国」と「正明国」は仏説に基づく抽象的な国名であり、後の2つが、脱解が出自したとされる国名を写した地名であると考えられます。「(王完)夏」も「花廈」も倭人語の「かか」あるいは「かが」の音写であり、日本語としては「加賀」の字があてられます。すなわち、脱解の母国とされるのは、邪馬台国九州説を採れば、「出雲国加賀郷」あたり、邪馬台国畿内説を採れば、ズバリ北陸の加賀国あたり、と言う事になります。
これほど具体的な地名が出てくる、と言うのは新羅を始めとする朝鮮半島東南部の辰韓領域の諸国が、山陰から北陸の倭人集団と強い交流を持っていたことを示唆しています。その日本側の神話的伝承が、スサノヲやアメノヒホコであり、出雲や但馬方面でその活躍が伝えられています。
 尚、『三国遺事』には、「王暦」と言う表があり、その脱解のt項には、次のように記してあります。
 第四脱解(一作吐解)尼師今 昔氏。父[王完]夏国含達婆王。一作花夏国王。妃南解王之女阿老婦人。(以下略)
 すなわち、王名こそ仏教臭の強い含達婆王となっていますが、国名は、完全に「かか/かが」の音写である「[王完]夏国」「花夏国」となっています。又、妃の名が「阿老」夫人となっていますが、これは「阿孝」の誤記(原本か、訳本かは不明です)でしょう。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける倭人の動向(3-2)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 8月15日(金)20時19分22秒
返信・引用
   『三国史記』新羅本紀巻一の脱解についての記載を続けます。
 脱解の姓は、昔氏で、王妃は阿孝夫人であると次に記してあります。王妃の阿孝夫人は、第2代南解次々雄の娘であり、当然朴氏です。脱解の出自は、この後の記事に記述されていますが、以前に、始祖王赫居世居西干の時にも触れましたが、その「朴」姓の由来が、卵生である赫居世の「大卵」の形状が、「瓢箪」に似ていることから、当時瓢箪のことを「朴」といったので、姓を「朴」氏とした、というのが、いわば『三国史記』や『三国遺事』を含めた半島の史書の「公式見解」です。しかし私は、『三国遺事』の記事から、実は赫居世(の卵)が発見された場所(山)の地名に「瓢岩峯」があることから、朴氏はその地名もしくは山の峰の名に因んで、命名された可能性が強いと論じました。
 さて、後述しますが、脱解も「大卵」で発見されており、赫居世同様、卵生です。であれば、彼も「朴氏」であってもよいはずですし、もし既に他人により「朴」姓が使用済みであるから不可ならば、「大卵」に因んだ「卵」氏なり、それを佳字(好字)に置き換えたり、辰韓の古語での同義語を採るとか、いろいろありえたでしょう。しかし、卵の在り処を鳴き声で知らせたという「カササギ」(鵲)の漢字の偏をとって「昔」としたとされます。しかも、統一新羅時代に、「昔」氏あるいは「積」氏なる有力貴族は、存在しません。これは、昔氏がいわば、朴氏(初期朴氏)と新羅の歴史時代の王家金氏の間に、挿入された架空の氏族だった可能性を示しています。
 では、なぜ、そのような架空の氏族の挿入が必要だったのか?それは、初期朴氏の後裔を称する新羅王室の外戚後期朴氏が、金氏から王位を簒奪したことを正当化する意図で、新羅王位が異姓の二氏~三氏の年長者間で、継承された歴史なり習慣があったとした事がまず考えられます。しかし、問題は新羅本来の王家金氏や朴氏以外の有力貴族が、そのような簒奪を正当化するような歴史を認める必要があったのか?という問題が残ります。『三国史記』は、金氏の子孫の金富軾が編纂し、かつ、高麗王室王氏は、金氏と姻戚関係を結びました。朴氏を簒奪者として、王莽のように貶めることも可能だったはずです。しかし、そうなりませんでした。
 何故か?その結論は、金氏以前に、辰韓人到来以前の先住者倭人の王家を推戴していた時期があり、その後を受けて、金氏が王位を継承したという、新羅国民や支配層が周知していた事実が存在した、と想定するしかありません。韓族化した新羅一般の民衆にも、自分たちが本来は倭人の血を引いており、その本来の王家(太陽神の子孫でその化身とみなされた?)が、日本列島に去ったのだ、という根強い伝承があり、それが無視できなかったから、新羅王位の三氏族間での持ち回りという「歴史」を受容したのでしょう。

 次回は、脱解の出自記事を、『三国史記』『三国遺事』両書から、検討します。
 

著Y線半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける倭人の動向(3-1)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 8月 8日(金)20時43分25秒
返信・引用 編集済
   『三国史記』新羅本紀巻一第4代夫脱解尼師今の紀では、まず彼の名が、「吐解」とも言い、即位時の年齢が六十二歳であったとされされています。
 まず、冒頭のこの一文だけでも、色々な問題があります。
 名前の「脱解」と「吐解」は、漢字での借音の問題ですが、第2代「南解」を上代日本語の「なか(中)」、そしてこの「脱解」を「たか(高、鷹)」と以前に解釈したことを記憶されているでしょう。では「吐解」おそらくは「とか」なる語彙は、倭人語では、どういう語義であったのか?と言う問題が残ります。後に『三国遺事』の記事などを根拠として、「脱解」が「たか(鷹)」と解釈され得る理由に触れますが、「とか」なる上代日本語に通ずる倭人語は、想定できません。おそらくは、日琉祖語系統の倭人諸部族の言語にも、上代日本語時代以前にすでに多くの方言が存在し、新羅地域の倭人方言が「とか」で、「たか」と同一の語義であったと考えて良いと思われます。7世紀に記録された列島の倭人語は、すでに筑紫、中央(畿内)、東国の三大方言に大別され、長田夏樹氏などは、それら諸方言の分岐は、記録された7世紀のおよそ1000年前だと推定しています(『邪馬台国の言語』学生社)。又上代日本語東国方言内部にも、すくなくとも3種類の方言が区分されます(日野資成氏)。当然半島南部の日琉祖語系統の言語も、多くの方言に分かれていたであろう事は、自明と言ってよいでしょう。「とか」は「たか」の方言形だと解釈するのが正しいでしょう。
 次に、即位時の脱解の年齢の高さです。彼の在位期間は、三十三年間ですから、没年は九十四歳と言う事になります。高句麗長寿王のように、実際に高齢に達した王も実在しますから、記紀の初期の天皇のように、百歳超と言う年齢でもないので、生物学的に可能な年齢の範囲ではありますが、現実的ではないと考えられる年齢です。神話的な逸話に包まれている王ですから、年齢問題を論ずるほどでもないと言えば、その通りですが、記紀から推察される「倍暦」が、倭人社会で広く行われていたと考えれば、即位時は三十一歳前後、死亡時は四十七歳前後と言う事になり、合理的と言える年齢です。ただ、『三国史記』での新羅の初期君主は初代赫居世が即位時十三歳、在位六十一年で、死亡時七十三歳、2代南解の即位時年齢は不明ですが、在位期間は21年とあり得る数字です。3代儒理尼師今は即位時年齢は不明ですが、在位期間は34年とやや長めですが、あり得ないほど長い、と言う事はありません。日本と異なり、無理に倍暦を想定しなくてもよいようにも思われます。或いは、辰韓地域に移住してきた辰韓人は、倭人とは異なった中国流の暦法を知っていたとも考えられます。脱解の時代など、暦法や年齢に問題は残りますが、「一年の長さ」と言ったことには、半島の史書は、若干の紀年操作を行っているとしても、倭国ほどではなかった、と考えてもよいかもしれません。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)における倭人の動向(3-0)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 8月 5日(火)21時45分52秒
返信・引用
   今回から、新羅第4代君主脱解の出自や事績を扱うことになりますが、基本的に神話であると断じてもよいような事績に満ちています。更に、正史『三国史記』とそれを補う『三国遺事』の内容の相違にも、興味がそそられます。又、新羅三王姓の内、末期に新羅王位を簒奪した後期朴氏を除けば、歴代の実在の新羅王家である「金氏」の始祖、閼智も脱解の時代に登場します。新羅三王姓の始祖の内、唯一君主にならなかった閼智は、当然その紀も立てられてはおらず、また列伝も立てられてはいません。実在の新羅王家の始祖とされる閼智のこのような扱いは意外ですが、扶余系の辰王(『三国史記』新羅本紀での馬韓王と同じ存在だと考えられます)やその系統を引くとされる百済などから、新羅が自立できたのは、先住の倭人の力を借りて、漸く辰韓六部あるいは新羅六村が、馬韓勢力あるいは辰王勢力を拒絶できたことによる、との歴史意識が、強かったのでしょう。本来は、馬韓出自(韓族であったか、扶余族であったかは不明)の「慕(募)」氏=馬氏が、新羅王位にありながら、金官国を征服して、その王家の「金」氏と通婚するや、その姓に改めて、金氏になったことは、新羅においては、扶余系や馬韓系の王家が歓迎されない、と言う現象があったのでしょう。
 次回以降、脱解の時代について、論じますが、『三国史記』と『三国遺事』が、これまで以上に混用されることになります。
 

始祖赫居世

 投稿者:yori  投稿日:2014年 7月 9日(水)19時56分27秒
返信・引用
  鹿児島の垂水市に「始祖赫居世」の杜があります。
最近は、観光方面で「平家物語」の方向でガイド説明されています。
少々残念です。

http://yorihime3.net/jisya/kose.html

 

誤記訂正・編集

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 6月29日(日)19時02分32秒
返信・引用
  本日、下端に編集欄がある事に気づきました。
 これまでの投稿記事の誤記・誤変換などを、しばらくチェックして、訂正したいと思いますので、脱解時代についての言及は、遅くなりますが、ご了承お願い申し上げます。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)における倭人の動向(2-13)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 6月29日(日)18時55分22秒
返信・引用 編集済
   『三国史記』新羅本紀巻一の儒理尼師今の時代の記事の続きです。
 三十一年春二月 彗星が紫微宮(天帝の宮殿とされる)の近くで輝いた、と言う天文記事がありますが、例によって、これは中国正史『後漢書』光武帝紀の天文記事の引用です。倭国、或いは倭奴国の王に、光武帝から王号と金印が与えられる少し前ですが、列島の倭人の地位の高さと、半島東南部の辰韓諸部族の相対的な地位の低さ(漢から見た尺度)が、窺えます。
 三十三年夏四月 龍が金城の井戸に現れ、暫らくして大雨が西北からやってきます。これも気象記事ですが、天文記事とは異なり、中国史書とは無関係です。竜は水神雨神農耕神などの性格を持ちますが、水害(洪水)の前兆としての龍の出現だと、井上秀雄氏は、注釈していますが、その通りでしょう。竜は満州・朝鮮・日本では、同源語と思われる「みづち」(上代日本語からは、水・霊の語義と解釈できます。木霊がククノチ、火霊がカグツチ、雷がイカヅチなど)、miri(朝鮮語、『岩波古語辞典』)、muduri(エヴェンキ語、『エヴェンキ語への招待』、シベリアではなく、黒竜江沿いの満州北部のエヴェンキ族の語彙)が分布し、北方の農耕不適地の龍を想定すれば、水神(あるいは雨神も?)が本体であり、農耕神としての性格は、水神からの灌漑水田農耕地帯での神格の追加~変容だと考えられます。
 同年五月、大風が吹いて、樹木を倒した。
 三十四年秋九月、王は病気に倒れ、群臣に脱解を後継者に推します。この時、儒理には二子があったと記されています。
 同年冬十月、新羅第三代君主儒理尼師今は死亡します。

 次回以降、章を改めて、昔氏始祖の第四代脱解尼師今について、『三国史記』と『三国遺事』の記事に従い、記述します。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける倭人の動向(2-12)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 6月27日(金)21時30分9秒
返信・引用 編集済
   『三国史記』新羅本紀巻一の第三代君主儒理尼師今の時代について続けます(実は、2回ほど投稿に失敗しました。新しいPCの操作にまだ慣れないため、クリックで、突然折角書いた記事が消えて、復元できないことがあったりします。原因不明です)。

 十七年秋九月、華麗・不耐二県の人々が、共謀して騎兵を出して、新羅北部国境に侵攻します。貊国の首長が出兵し、曲阿(不明)の地でこれを迎撃し、破ったので、儒理尼師今は大変喜び、貊国と友好関係を結びます。
 十九年秋八月、貊国の首長が、狩猟で得た鳥獣を、(新羅王に)献上します。

 これらの記事に現れる侵略した華麗・不耐の人々とは、「二県」とあるように、楽浪郡に編入されていたことのある江原道方面にいた濊族に属する部族であり、部族が、漢の郡県に編成されることはよくあり、高句麗もかつて高句麗県でした。ここに現れる濊系の二部族の内、特に不耐は、濊族中でも有力であり、高句麗同様に、その首長が、「侯」に封ぜられたり、ある時期には王号(不耐濊王、ただし王号は、種族全体を代表して与えられたと考えられますので、不耐侯⇒濊王へと叙爵すなわち昇叙されたと考えられます。後に「濊王之印」が新羅の領土拡張に伴って、入手されたことが記されています)すら得ていたことが中国の史書に見えます。さて、では「貊国」とはどこにあり、どのような種族だったのでしょうか?まず、「貊」とは、高句麗を含む夫余系種族の名称(総称?)とも考えられ、先の「濊」と合わせて「濊貊」とも称されます。濊も広義の「貊族」の一派と考えられますが、辰韓近辺では、貊族とは明瞭に区別された満州・ツングース系の一種族として、考えるべきでしょう。ではこの貊国とは、いったいどのような種族、或いは国家であったのか?そもそも貊族とは、高句麗族やそれに近い夫余族集団を指しており、中国史書にも「高句麗の別種」として、「小水貊」の名が現れます。百済の前身は、馬韓54ヶ国の最有力の(部族)国家伯済国でした。以前、この「伯済」の「伯」は、「百済」の「百」や「貊族」の「貊」とも音通で、周代に山西省(春秋の強国晋の領域)にいた「九貉」の「貉」とも音通だと説いたことはご記憶にあるかと思いますが、満州・ツングース系の夫余系諸族が、山西省方面にまで進出していたか、或いは山西省あたりから、漢民族の膨張に圧迫されて、東遷して満州や半島方面に入った と言うような歴史的記憶が存在すると考えられます。さて、この儒理尼師今の時代に現れる「貊国」は多くの貊系部族の内、江原道方面に接点を持つ部族(部族国家)であると考えられます。高句麗は北西にある大国ですが、この場合は、馬韓に入って建国した貊系の支配者を戴くものと考えれば、『三国史記』の冒頭に現れた「馬韓王」あるいは「辰王」の国や部族である可能性が強いでしょう。私は、後の百済、すなわち「伯済」国やあるいは「月支国(目支国?)」が、この「貊」である可能性が高いだろうと考えています。高句麗や百済、或いは月支国を含めた夫余系の支配者を戴く部族国家であれば、どれも資格があると考えますが、辰韓自体が「馬韓の東界」に起源した部族国家群であったことを考えると、高句麗ではなく、百済につながる部族だった可能性が強いだろうと考えています。 これは、後に触れますが、新羅三王姓で韓族あるいは夫余系と考えられる「非倭人系」の唯一の王統「金氏」が、中国に初めて通交した法興王の時には、法興王の名が「募(慕)泰(秦)」と記されていることからも、支持されると考えています。
 実際には、この時、新羅は、辰王≒馬韓王の支配下に再度組み込まれたか、その掣肘を(赫居世の時代に自立をいったん果たした?にもかかわらず)受けるようになった、と言う事だったのでしょう。高句麗好太王碑の時代の話の混入とも解釈できない事もありませんが、金氏の始祖とされる閼智は、次代の第四代脱解尼師今の時代に登場しますから、馬韓勢力の伸長を背景に、辰韓~新羅に新たな王統が出現したという伝承が存在したと思われます。
 もう一つ、十九年秋の貊国首長の、いわばお返しともいうべき新羅への、狩猟の獲物の献上記事ですが、これは単純に、国家間、或いは部族間(部族国家、natio段階ですから、どう表現してもほぼ同義でしょう)の通常の儀礼的なものと捉えるか、それとも特別な意義を見出すか?と言う問題があり得ます。私は、特別視する必要はないと思いますが、汎世界的に、遊牧民部族が農耕民世界等に侵入した場合には、侵略した遊牧民が、いわば、先住民の神霊に敬意を表して、供儀を備えて、敬意を示し、祭祀を行う(おそらく神霊の害意をなだめる目的)と言う現象は、しばしば観察されます。アフリカのバントゥー、ニロートなど、ケニアからウガンダ方面でも、しばしば報告されています。又、商民族の国家(殷)では、征服した土地の神が、いわば「客神」として、祭祀されました。同じ東アジア世界のこの商の祭祀が、半島でも参考になるかもしれません。この場合、征服者が、被征服者の新羅の神々(土地神)に、供儀として、鳥獣を献上したとも解釈は可能です。
 

朝鮮半島東南部(辰韓・新羅領域)に於ける倭人の動向(2-11)

 投稿者:hn2602  投稿日:2014年 6月17日(火)21時42分26秒
返信・引用 編集済
   さて『三国史記』新羅本紀巻一第三代儒理尼師今の項に戻り、六村(六部)改名、賜姓記事および歌曲の起源記事以降の事績について、見て行きます。
 十一年王都の池が裂け、泉が湧出します。
 同年六6月、大水がありました。
 十三年秋八月 楽浪が、新羅の北部に侵入し、朶山城を攻め落とします。この記事は、漢の設置した楽浪郡が、韓族諸国の地を、併呑しようとした歴史的事実の反映でしょうが、年次、あるいは実際に新羅(斯盧国)の領域に攻め込んだのか、他の辰韓諸国(辰韓部族連合)の話であったかは、不明です。
 十四年(AD37年)高句麗王無恤(大武神王、高句麗第3代の王で、第2代瑠璃明王=孺留の第3子とされる)が、楽浪郡を攻め滅ぼします。同じ『三国史記』高句麗本紀の大武神王紀に、同様の記事があります。楽浪の国民五千人が新羅に投降し、新羅は、彼らを六部に分けて住まわせます。この記事から、辰韓六部~新羅六村が血族共同体と言うよりも、政治的に編成された組織であることが、窺えます。もう一つ、高句麗第2代王瑠璃明王は、また諱を類利あるいは孺留と言い、新羅第3代の儒理尼師今と同名であると以前に述べたことはご記憶にあると思いますが、その子とされる第3代高句麗王の大武神王は、諱は無恤とされますが、高句麗本紀では「大解宋(朱)留王」とも記されています。この王名は、大は美称、解は夫余や高句麗の王姓(おそらく、韓国朝鮮語のhε、すなわち日本語のfi1日を意味する語と同源の「太陽」の語義と考えられます)、「宋留王」なる王名は解釈が困難ですが、これが「朱留王」と言う王号~王名であったとすれば、「朱留」は、音韻的に孺留、儒理、儒禮と近似します。すなわち、新羅第3代の王名と高句麗の第2代、第3代の王名が、同じである、と言うことになります。これはいかに解釈すべきでしょうか?1つの解釈としては、「類利、孺留、儒理、儒禮」の語義が、「次王」と言う一般的な意味を持つとする説ですが、しかし、高句麗ではそうすると二代「次王」とされ、新羅でも、第3代はともかく、後代にも諱がはっきりしなかった「次王」とされた存在がいた、と言うことになります。
私は、むしろ、辰韓六部自体が、夫余系王族(同時に高句麗の王族も出自した)「解」氏によって編成され、辰王国の一部だったが、後に夫余本国や高句麗王家あるいは馬韓王(辰王国の王族)から自立したという経緯があり、これらの史的伝承を、文章で歴史化・記録化する時に、時系列が混乱し、あるいは、新羅自尊史観によって、編集されたことが、大きな原因ではないか?と考えています。
そのように考えると大武神王の別号の「大解宋留王」はおそらくは誤記であり、「朱留王」に音韻が類似する「栄留王」とかだったかもしれません。旧字体では「宋」と「榮」はそう誤記しそうにも見えませんが。『三国遺事』では「味留」との説が記載されています(『三国遺事』王暦第一)。
 いずれにしろ、非漢民族の言語を、漢語の音で、音写する際には、ブレと言うか揺れがあり得ます。新羅の国号で倭人の言語ではないおそらく韓族、夫余族あるいは辰韓語の国号の音写と考えられる「徐那伐」は、『三国遺事』の前記王暦第一では、「国号徐羅伐。又徐伐。或斯□(盧の脱字)。或雞林。」とあります。前の2つが、韓族の言語による国名、その次が倭人の言語、最後が漢語での国号だという事でしょう。『三国史記』に現れる国号「徐那伐」は、漢字表記では、「徐羅伐」「徐伐」とも表記されていたのです。


 
 

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